第二章 祖父
私は、人口3000人にも満たない、小さな山あいの村で診療所を営んでいる。山に囲まれた小さな村には、なだらかな茶畑があちこちに広がっていて、朝になると川沿いに霧が立ち、静かな道を軽トラックがゆっくり走っていく。私が父の跡を継いで、もう16年になる。父の代には村の人口減少に伴って、医療機関は父の診療所だけになっていた。
そのような多忙な日々を送っていた父は、66歳で肺気胸による呼吸不全で急死してしまい、村内に医療機関が一つもない無医村に陥る危機に瀕した。当時、私は肺癌の基礎研究のため、アメリカに留学していたが、父の死をきっかけに留学を中断し、村唯一の診療所の院長になった。
診療所での仕事は、毎日多忙である。午前診療は朝8時半から始まり、昼からは村内各地の訪問診療に回り、帰ってからは夜7時まで午後診療をする。そこから、書類仕事や経営の仕事などをすると、どうしても帰宅が遅くなってしまう。数年前からは、他地域での訪問診療も担うようになったので、さらに忙しくなった。
気がつけば、私も五十を目前にしていて、ふと自分の人生を振り返る時がある。自分がどんな人生を歩んできたのか、なぜ医師を志すようになったのか、なぜ父の跡を継ぐ決心をしたのだろうか。そして、このまま多忙な日々に追われっぱなしで良いのだろうかと。
そのようなことを考えながら、今日もまた、村内の訪問診療に出かける。この日訪ねる地域には、祖父が暮らし、診療していた診療所兼自宅があった。そのため、この地域には祖父の代からの患者さんが多く住んでいる。祖父・父・私と三代にわたって診ている患者さんもいれば、患者さん側も親子三代で通院している方が数多くいるのだ。
チヨエさんは、そんな患者さんの一人で、家族ぐるみで親交のあった、気立ての優しい、祖母のような温かい包容力のある女性だ。幼少時の私のことも良く覚えてくれていて、泣きじゃくっていた私に困ってオロオロしていた祖母の代わりに抱っこしてあやしてくれたり、一緒に散歩に出かけてくれたりしたそうだ。そんなチヨエばあちゃんも御年96歳、若いころはそろばんの達人だったためか、記憶力は全く衰えを見せず、足腰の筋力はやや落ちてきたものの、その年齢には到底見えない。
「チヨエさん、こんにちは。体調はどうですか。」
「ケンちゃん、、、あ、健先生、こんにちは。つい、癖で昔のまま呼んでしまうのね。失礼ね。」
「そんなことないよ。いつもの呼び方でいいよ。」
チヨエさんが相手だと、私もつい、身内のように接してしまうのだ。チヨエさんは、いつも通り、リビングの大きな木製のダイニングテーブルに並べられた椅子に腰かけて、私の訪問を待ってくれる。普段の様子を知りたいので、私の訪問診療では患者さん自身の部屋で診察することが多いのだが、チヨエさんだけはそれを許してくれない。
「寝どころを人様に見られるのは嫌なの。」
毎月、決まった日に美容室に行き、髪を整える。若いころから愛用の化粧水を使い、毎日、お化粧も欠かしたことはない。
「健先生、今日は先生の好きなイチゴを用意しましたよ。飲み物は珈琲でいいかしら。とても甘いイチゴだから、お砂糖は無しでいいわね。」
「うん、ありがとう。いただきます。」
診察もそこそこに、お茶菓子と昔話に花が咲くのが、チヨエさんの訪問診療のいつものスタイルだ。私は、幼い頃から父と離れて暮らしていたので、自分の家がどんな歴史を辿ってきたのか、ほとんど知らずに育った。それどころか、自分の幼少時がどんなだったのかさえ、父からは話を聞いたこともなかった。チヨエさんはそんな私の境遇も知っているので、訪問の度に、色々とお話をしてくれるのである。
「さあ、今日は健先生のお祖父さまの話をしてあげようかしら。健先生とよく似て、立派なお医者様でいらしたのですよ。」
祖父・正和は、大正元年、三男として生まれた。生家は地域の宿泊施設を経営していたが、成績優秀であった祖父は、宿屋の跡継ぎではなく、医師への道を志すようになり、単身、満州鉄道病院に特待生として当時の満州に派遣され、そこで医師となった。祖母とはお見合いで結婚したらしいが、私の父は、満州で二人の次男として生まれた。満州では、地元の医師として、日本人、中国人分け隔てなく診療していた祖父は、終戦を迎えても直ちに日本本国に帰ることはせず、数年間その地に留まって、地元住民の健康管理に努めていたという。しかし、敗戦国日本の国籍を持つ医師一家が、その地にいつまでもいるわけにはいかなかったようで、やがて日本本国への帰国を決心した。しかし、その帰国の道中は、中国共産党軍から逃れるための、まさに命懸けの逃避行だったようだ。そして帰国後、祖母の生家があったこの村に居を構えることになった。その当時も、この村には医療機関がなかったため、祖父は医師として住民に歓迎され、今の私が経営する診療所の前身ができたのである。
私の記憶にある祖父は、大変厳格な人柄であった。お正月には、親戚一同が祖父の家に集まるのだが、祖父はテーブルの一番奥の決まった位置に座り、親戚の大人がひとりひとり、順番に挨拶に回るのが恒例であった。私たち子供はそこには近寄ることができず、ただ大人が避けて通れない儀式のようなものとして、祖父に対しては尊敬の念を持ちつつ、どこか近寄りがたい別次元の存在であった。
祖父は地域医療に熱心で、とりわけ当時問題であった寄生虫対策に関心が高く、「パンツ履かな寄生虫になるぞ」と、地域の子供たちに教えて回り、『パンツ先生』との愛称で呼ばれていた。この功績が認められ自治体から表彰もされている。そんな祖父であったが、カメラ撮影が趣味で、診察の合間に患者さんと写真を撮ったり、患者さんの家に呼ばれて診察する往診でも、必ずカメラを持って出かけ、風景を撮ったりしていた。地区の公民館には今でも、祖父が撮影した仏像写真や祭りの写真が、大切に額に入れて飾られている。遺品整理の際、カメラのフィルムケースから、一万円札の束と、ある女性宛ての手紙が見つかった。まさかあの祖父が、と思わず驚いたが、祖母の目を盗んでそんなことをしていた祖父の姿を想像すると、どこか微笑ましくも感じられた。あの祖父にもそんな一面があったのかと思い、死後になってようやく、少しだけ身近な存在として捉えられるようになった。
「健先生のお祖父さん先生は、本当に気さくなお医者さんでねえ、診察に来た人、一人ひとりと写真を撮って話していたのよ。」
チヨエさんは目をつむって、頷きながら話す。
「私も往診に付いて行ったことがあるけど、往診先でそこのご家族とお酒を飲み始めてねえ、患者さんそっちのけで盛り上がっちゃってねえ、午後の診察に間に合いませんよって、怒ったこともあったわ。」
「本当に?お正月に、家の奥で座って構えていたお祖父さんとは、だいぶイメージが違うけどなあ。」
「自分の子供たちには厳しかったのかもしれませんよ。そうでなかったら、健先生のお父さん先生も、お医者さんになれないでしょう?お祖母さんは、おっとりした方でしたからねえ。」
なるほど、祖母は私の思い出の中の印象通り、やはり大人しい性格だったようだ。祖父の愛人問題など、ひょっとしたら祖母は何も気づいていなかったのかもしれない。
「そんなお祖父さん先生でも、きれいな女の人には弱くてねえ。そこがまた、人間味があるというか、微笑ましいというか。」
どうやら、祖父の愛人問題は村内では有名な話だったようだ。 私がいま診ている患者さんの中に、時々、祖父に撮ってもらったという写真を持ってきてくれる人が何人かいる。若いころの患者さん自身が写っているものと、中には祖父と並んで写っているものや、飲み会でのワンシーンを撮影されたものもある。写真の中の祖父は、にこにこと笑い、細身の洋服を着こなした紳士であった。なぜか、祖父にじっと見つめられているような気になって、私は姿勢を正してその写真を受け取った。


コメント