【ライフログ小説・① 】それでも、人を診る

ライフログ自分史

第一章 尊厳

「午後7時35分、死亡確認しました。長い間、お疲れ様でした。」

部屋には、石油ファンヒーターの低い駆動音だけが響いていた。枕元の小さなテレビは消されている。阪神タイガースの法被を着せてもらった秀治さんは、まるで少し昼寝をしているだけのようにも見えた。

秀治さんは、85歳の時に肺癌と診断され、外科手術を受けた。三年後、88歳の時に肺とリンパ節に再発したため、抗癌剤治療を勧められたが、高齢の身体に負担の大きい治療は受けたくないと言い、その治療を望まなかった。再発性肺癌の進行とともに、少し動くだけで息が切れるようになり、独居生活に不安が出てきたため、村に住む息子夫婦の元へと引っ越ししてきたのであった。村に移り住んでからは、私が主治医となり、月に2回定期的に訪問する在宅医療を受けることとなった。

妻を早くに亡くした秀治さんは、男手一つで息子を育て上げ、定年まで会社に勤めた。定年後もパートタイムで仕事を続け、肺癌の手術が終わってからも、ずっと、大阪市内で独居生活を送っていた。大の阪神タイガースファンで、夕方の訪問診療時にはいつもテレビで野球観戦しており、息を切らしながらも、一生懸命に応援していた。

「どうですか、お身体の調子は。」

「うん、ええよ。どないもない。それより阪神があかんわ。どいつもこいつも内角に刺されよるわ。今日は負けやな。」

そう言いながら、肩で呼吸をする。短時間の会話でも、息が上がってしまうくらい、呼吸機能は低下しているのだ。日中はベッドの上で過ごすことが多くなった。体重も訪問診療開始当初よりは明らかに減少している。特に最近は、歩くたびに足の痛みを訴えるようになっていた。

「酸素を使えば、もう少し呼吸が楽になりますよ。痛み止めも少し飲んだほうがいいと思います。」

私は訪問当初、診察ごとに、このように酸素吸入と鎮痛剤の内服治療を勧めていたが、それが受け入れられることは無かった。

「薬はもう、ええねん。これは、儂が決めたことや。」

秀治さんはいつもの優しい顔だが、これ以上の提案を寄せ付けない厳しい雰囲気を纏って答える。

「でもな、先生、儂をこれからも診に来てな。言うこと聞かん患者やけど、見捨てんといてな。儂、先生と話してるだけで、スッキリして楽になるねん。」

「もちろんです。秀治さん、阪神が負けるたびに機嫌悪いですから。放っておけませんしね。」

「それならよかった。医者ってのは、言うこと聞かない患者にはそっぽ向くもんやと思てたけど、あんたみたいな先生と出会えて良かったわ。」

嬉しいことを言ってくれる。機嫌を良くした私は続けて、

「でも、秀治さん。なぜ、薬を飲みたくないんですか?僕は、秀治さんが、息がしんどそうにしているのや、痛みを我慢しているのを見るのが辛いんです。息子さんやお嫁さんも、心配そうにしていますよ。」

訪問診療を開始して1か月ほど経った時、症状が強くなっているのを見て、このように尋ねた。

「うん、儂はな、もう十分、自分の人生を生きてきてん。こうなったら、もう息子と嫁さんに迷惑かけずに、すっと死ぬことだけが目標やねん。薬飲んで、少しでも長生きしたら、それだけ迷惑かかるやろ。」

「なるほど、その気持ちは良く分かります。無理に長生きはしたくない、と。」

「その通りや。薬飲んだら長生きしてしまうんやないかと思ってな。もう、すっと死にたいねん。」

「秀治さん、痛み止めや咳止めで寿命が延びるわけではありません。少しでも楽に過ごすための薬なんです。」

「そやな、そうかもしれんな。」

秀治さんは、思ったよりもあっけなく、納得してくれた。私が説明したことは、秀治さんはすでに十分、分かっていたことだったのだろう。ただ、自分の最期をどのように迎えたいのかという考えを、誰かに聞いてもらいたかったのだと思う。

こうして、秀治さんは、痛み止めや、息切れを緩和する薬の投与を開始することになったものの、やはり肺癌に伴う症状は強くなっていき、私が診察のために訪問する回数は1週間のうち2回程度まで増えていった。しかし、その分だけ、秀治さんと話をする時間も増え、自身の昔の仕事のこと、亡くなった奥様のこと、そして息子さんへの想いなどを話してくれるようになった。

「妻が死んでしもうてから、息子を育てるのに必死やった。朝から晩まで、よう働いたわ。息子は、ちょっと変わったとこあってな、口下手やし、仕事もあんまし長続きせえへんかったんやわ。ほんでも、あんな良い嫁さん貰って、こんな立派な家建ててなあ。子ども居らんのが、まあ、何やけど、嫁さんと仲良くやってるし、だからもう、儂は思い残すこと無いねん。」

頭の後ろで腕を組み、壁に掛けられた妻の遺影を見たまま語る。時折り、深く深呼吸して、息を整える。秀治さんの視線が、不意に私に向く。

「癌ってのは、遺伝せえへんのか。あいつも、こんな病気にならんといて欲しいからなあ。」

「はい、病気がそのまま遺伝することはないです。安心してください。」

「よっしゃ。先生、あいつらが何か病気で困ったときには、助けたってや。頼むで。」

診察が終わると、私はいつもリビングでお嫁さんと話をした。お義父さんの普段の様子や、介護するにあたり困ったことがないかを確認するためである。秀治さん自慢のお嫁さんだけあって、優しくて、お義父さんのことを本当に心配していた。

「夜中に眠りにくいことがあるみたいで、トイレに何度か行っているみたいです。ハアハア、と息切れが聞こえることもあります。トイレの失敗も、以前より増えてきたように思います。」

お嫁さんは、限られた診察時間では見えない日常を、丁寧に伝えてくれた。

「夫は、お父さんとどのように接したらいいのか、悩んでいるようなのです。癌が進行して、死期が近いということは分かっているのでしょうが、しんどそうにしているお父さんに何もしてやれることがないことが、彼を苦しめているのだと思います。」

秀治さんの、息子さんへの想いを聞き取っていた私は、ただ、一緒にいるだけで十分にお父さんに気持ちは伝わっていますよ、と言いたかったが、お嫁さんは続けて言う。

「ですので、お義父さんの病状が今よりも更に深刻になれば、お家で看ていくのは難しいと思うんです。」

私は、息子さんとはわずかな時間しか話したことはなかったが、生真面目で神経質そうな印象を受けた。秀治さんの話していた“口下手”という意味も何となく腑に落ちたような気がした。お父さんとの接し方に悩み、そのことで妻との関係性にも僅かな揺らぎを感じているであろう息子さんの苦しみが伺えた。息子さんだけでなく、その隣に立つお嫁さんの表情にも、疲れが滲んでいた。

それから、間もなくして秀治さんの容体は悪化した。突然、38度を超える発熱を来たし、息苦しさが酷くなった。肺炎を起こしたのだ。意識ははっきりしている。

「秀治さん、肺炎を起こしています。酸素投与と、抗生剤の点滴治療が必要です。」

「分かった。ここにおったら、あいつらに迷惑やろ。先生、病院に送ってくれるか。」

私は、すぐに連携している病院に連絡を取り、入院できるよう手配した。救急車が到着するまでの間、秀治さんは一言も話さず、ただ、亡くなった妻の遺影をじっと見つめていた。私は、横にいて、背中をさすってやることしかできなかった。息子さんは仕事で不在であったが、お嫁さんも秀治さんの横で泣きながら背中をさすっていた。

「本当は、先生に看取ってもらいたかったんやけどな。残念なんは、それだけや。」

救急車の赤色灯が見えなくなったあともしばらく、私はその場を動けなかった。

それから、2週間ほど経った頃だろうか、連携先の病院から突然に連絡が入った。何と、秀治さんの退院後の訪問診療をお願いしたいとのことだった。不謹慎ながら、死亡のお知らせの電話かと思っていたが、どうやら、まだ生きながらえているとのこと、しかし、食事も摂取することはできず、痩せ細り、いつ亡くなってもおかしくない状況であるという。そんな状態でも、秀治さんは、最期は私に看取ってもらいたいから家に帰りたい、と言っているのだそう。

「分かりました。いつでも、帰って来てもらって結構です。すぐに訪問に向かいます。」

私は、二つ返事で返答すると、翌日朝、早速、退院した秀治さんの往診に伺い、2週間ぶりの再会を果たした。わずか2週間でこれほど衰えるものかと驚いたが、秀治さんの表情は、家族の待つ家に帰ってきた喜びと、死を受け入れた覚悟とが混ざり合った穏やかなものであった。

「おかえりなさい、秀治さん。また会えましたね。」

「会いたかったで、先生。しかし、病院も、よくこんな我がままを聞いてくれたもんや。なかなか人情あるもんやないか。」

秀治さんが亡くなったのは、その日から、僅か2日後であった。年明け間もない、寒い日だった。夜、仕事が終わって、今日はいつもよりスムーズに回れたなあと、ほっと一息ついたところに電話が鳴った。なぜか、電話が鳴った瞬間、秀治さんだろうと分かった。

「義父が息を引き取ったみたいです。」

お嫁さんからの電話だった。家に到着すると、秀治さんは大好きな阪神タイガースの法被を着せてもらい、ベッドできれいに横たわっていた。私は、秀治さんの髪を手で整え、うっすら開いた瞼をそっと閉じて声をかけた。

「長い間、本当によく、頑張ってくれましたね。ようやく楽になりましたね。」

「この2日間は、お陰様で、父と少し話ができました。ほとんど苦しむことなく、穏やかに過ごしてくれました。家に帰りたいと聞いたときは、正直どうなるかとビクビクしていましたが、家で看取ることができて、本当に良かったと思います。先生のおかげです、ありがとうございました。」

息子さんは、涙を流しながらも、晴れ晴れとした表情で私に礼を言ってくれた。

「午後7時35分、死亡確認しました。長い間、お疲れ様でした。」

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